朝起きたら腕がしびれていたので医者に行った話
ある朝起きたら片腕がしびれて力が入らない状態だった。悪い病気だったらどうしようと思い、とりあえずネット検索した。
見つかったのがこちらの記事。まずは腕のしびれの原因をチャートで示し、対策を紹介している。
私がこのフローチャートの従い自己診断したところ、脊椎椎間板ヘルニアと診断された。*1
ヘルニアだったらどうしようと戦々恐々として病院の予約を取り診察してもらったところ、私の場合は短期間でしびれがある程度回復しておりヘルニアの可能性は低い、という診断結果になった。ヘルニアにしては回復が早すぎるんだとか。
脳、脊髄、腕のどこかに問題があると思われたため、脳出血や脊髄の確認のためMRIをとったが、結果として問題はなかった。
可能性は低いものの、私のような症状でも脳出血により腕がしびれていることがあるそうだ。ヘルニアも深刻な問題だが、脳は時間との戦いになるのでぼやぼやしていると致命的な結果になる可能性がある。
なお、今は完全に回復している。たとえ医者が監修していても、原因が複数分野にわたる可能性がある症状に関しては、調べて調べすぎることはない。少しでも不安がある場合は、ネットで済まさず医者にかかったほうが良いようだ。臨機応変な対応を!
私の知っている"いい子"と都合のいい子
最近、"いい子"が不倫するという記事を立て続けに読みまして、なんとなく、「彼はいい人だけどちょっと物足りない」という言葉を思い出した。不倫した時点で"いい人"ではないと言う意見はおいといて、最近はいい子がゲシュタルト崩壊しているので、"いい子"について書く。
結論だけ書くと、いい子ってただの都合のいい子になってることが多い。
そもそも"いい子"、"いい人"、ってなんなのか。アドレス帳やfacebookを開いて友達を見ると、たぶん"いい子"・"いい人"がたくさんいると思う。
私が誰かをそう表現するときは3パターンある。(1)彼ら・彼女らに好感を持っているが付き合いが浅くてその人たちのことがまだ良くわかっていない、(2)何かちょっとした欠点があるが付き合う上では問題ない*1、(3)他に言いようがない、この三つ。
(1)は付き合いがまだ浅いだけ
その人のことが良くわかっていないだけで、そのうちその好感の理由を明確に表現できるようになる。たとえば、しっかりもの、賢い、気が利く、思いやりがある・・・、とより具体的に。こういう人たちはただ接した時間が足りなかっただけで、そのうち人となりがわかってくる。つまり、よくわからないので(一時的に)いい人カテゴリとしている人たちになる。
(2)は、"自分が"友達関係を持つだけなら問題のない人たち。誰でもいいところ悪いところがあると言える程度の、ちょっとくせのあるけどそれほど大きな問題のないの人たちだ。(愚痴が多いけど面倒見が)いい人、(遅刻癖があるけど気がきく)いい子、などなど。付き合いたくないほど悪い人たちではないので、酒癖が悪い人であれば一緒にお酒を飲まない、時間にルーズな人なら多少遅れても大丈夫な予定に誘うなどなど、遊ぶ分にはどうにでもなる。物理的距離が離れたり立場が変わると友達づきあいを続けにくくて、一生の友達にはなりにくいが、そういう友達もある程度はいる。
問題は(3)。友達について表現するとき、やさしいいい子とか、気がきくいい子のような表現でなく、"いい子"としか言いようがない人もいる。じゃ、なんで"いい子”は、優しい、気がきく、しっかりもの、と言った言葉(と一緒)ではなく、”いい子”なんでしょうかってのが問題になる。
たいてい人にはいいところ悪いところ、特徴的なところがある。あなたが友人について教えてと言われたらいろいろな言葉が出てくると思う。たとえば容姿だったらかわいい、きれい、かっこいい、地味、おしゃれ。能力なら、てきぱきしている、しっかりもの、賢い、スポーツが得意。あるいは、うっかりもの、おっちょこちょい、のんびりしている、マイペースといった、褒めていないような評価でも良い。いろいろな表現があるけれど、大体の人には何かの表現が使える。
(1)は接した時間が短いためにはっきりとここが良いといえなかったりするが、問題としている(3)のいい子の人たちは特徴がない、あるいは薄い。なぜかというと、自己主張のようなものがあまりないからだ。とはいえ常識はあってまともで、人に迷惑はかけない。他人の被害者になることはあっても加害者にならない人ともいえる。
そういう人たちは、やさしいとか、気立てが良いとか、そういう言葉じゃなくて、ただただいい人としかいえない。なんで"いい子"としかいえないかというと、そういういい子は、優しい性格だから優しくするとかじゃなくて、他に何かある人だから。たとえば、私が知っている家庭環境などに問題があった人たちは、非常に個性的か”いい子”がおおい。
どちらもおそらく生きるためにそういう戦略をとっているんだけど、”いい子”のほうのひとたちは、自分が我慢することで問題を解決する傾向がある。いくつか選択肢があって長い目で見て得だから能動的に我慢すると言うより、とりあえず自分が我慢すれば収まるから我慢すると言うはたからみていてなんともいえない行動をとる。それは確かに立派だけど、理不尽なときや反論しても問題ないときでも我慢するので、やさしさとかそういうものから出てるわけじゃないのはなんとなくわかってしまう。それなりに深入りするか本人がべらべらそういうことを話さない限りはっきり何が原因かは周りから見えず、表現としてはいい子のようなぼんやりしたものにならざるを得ない。
確かに誰かが我慢しておけば問題は解決するし、周りも感謝するけど、本人は我慢するしか選択肢を知らなくて我慢してるだけで、ある程度付き合いが長くなってくるとそういうのは周りにばれるし、それを見て取った不倫おっさんやたちの悪いヒモみたいに搾取してくるやつもいる。
まともな人は、そういう"搾取"を見てあの子いい子なのにって思うけど、実のところ、(本人のせいじゃないけど)本人は自己主張したり嫌なことをいやって言うよりも搾取されるほうが楽でそういう結果になっていることが多い。楽と言っても本人は苦しんでいて、なぜ苦しんでいるかと言うと他人と比較して自己主張するハードルが異常に高いので、SOSが出せず不幸から逃げ出すのがへたくそだからだ。NOをいうより、嫌なことをされるほうがましというどエムもびっくりなメンタリティ。美人だと人をひきつける分、 NOがいえないと大変って昔書きましたが、それににてる。
大人になると、NOやSOSがだせず周りもわざわざ助けてくれないので、そういういい子が不幸になっていくのはある種当然のようなところがある。いい子だから精神年齢高いってわけではない。他人のことを搾取しても平気な人たちはたくさんいて、そういう人に引っかかってメンタルつぶれた旧友(女性)は結構いた。
そんなわけで、私の知っている"いい子"はだれかの都合のいい子(あるいはサンドバック)となってつぶれていった。ただ、中にはカウンセリングにかかったり人生再出発して帰ってきたりする人もいる。そういう人たちは人格できた人になるようだ。
*1:ちょっと酒癖が悪い、時間にルーズetc
夫婦別姓
私は自分の名前を絶対に変えたくないと言うレベルで気に入っているわけでもなく、苗字は正直なんでもいい。それでも、結婚後の性を同姓別姓選べるようになったとしたら、私は夫婦別姓を選ぶだろう。
理由は、どう考えても非効率的で合理性がないからだ。たかだか書類手続きや業績の名前の証明で時間がかかるのはいやだ。それだけといえばそれだけだが、小さなことでもこの先50年ほど続くとなると面倒くさい。
特に働く女性が別の性にするとなると、面倒なことが増えてしまう。いちいち自身の業績の説明の際に旧姓を証明するための書類を取り寄せたり添付したり、社内で旧姓を使っていても公的手続きでは結婚後の性を使うことになって事務担当者が混乱したり、どう考えても結婚後に姓を変えたほうに不利な状況となっている。
逆に言うと、そういう不便なところが改正されれば、私は自分の姓がどうなろうがどっちでもいい。別姓でなくてもミドルネームのような形でも良いし、新しい姓を使うでもなんでもいい。
ただ、伊達まき、大場加奈子、大場鹿の子などの面白名前になるのはいやなので、制度としては夫婦別姓も選択できるようになってほしい。
ところで、夫婦同姓しか認めない人々の問題は、「夫婦のどちらか片方に対して決して小さくない労力を強いる一方で、その不便を解決する方法をほとんど提示していない」点にあると思っている。
これまで、旧姓を通名として用いればいいと言う"妥協"は行われてきているけれど、根本的な解決になってはいない。
東京新聞のアンケートによれば、夫婦同姓しか認めない人々が夫婦同姓のメリットとしてあげている項目は、伝統、結婚の意識、お墓である。
一方、別姓の導入に反対する人たちからは、「日本の伝統が崩れる」=愛知県、男性(73)、「名前を変えることで結婚の意識が高まる」=滋賀県、男性(56)、「それなりの覚悟で他人から夫婦になるのだから、結婚したら同じ姓になりたい」=三重県、女性(24)=との意見が相次いだ。
伝統でいえば夫婦別姓のほうが伝統的ではないかという指摘は置いておいて、結婚の意識、お墓のどれも、人によっては夫婦同姓のメリットには映らない。
結婚の対する意識も変わりつつあり、お墓に関しては姓と無関係に話し合うこともできる。どうも、姓に対する深い思いいれがあるようだ。
とりあえずいえることは、姓の変更に関するメリットデメリットは人によって違っていること、特に夫婦別姓をまったく認めない人(あかの他人が夫婦別姓を選ぶことを否定する人)は、姓に対する思い込みのようなものがあると言うことだ。この思い込みは必ずしもすべての人に共有されているわけではないので、夫婦同姓を強制使用とすると反発が生まれるが、思い込んでいる人々の中にははその思い込みが当たり前のものと考えていることがあり、そこで摩擦が生まれる。
なんにせよ、片方だけに負担を強いる制度が良いとは思えない。できるだけ早い解決を望んでいる
本人の性質とちぐはぐな恋人や結婚相手を探す人たちがいるという話
最近、「(今まで彼女いたことないけど)かわいい人や美人と結婚したい」の話が続き、あんまり良くないんじゃないかな、と思った。
以下の現代ビジネスだと容姿を重視する男性の話が載っている*2。このレベルの人々はなかなかお目にかからないけど、女性の容姿について非現実的な(芸能人レベル)要求をする人は少なくない。
私が見たことがある人のなかにも、バリキャリと付き合ってるのに(女性の希望に反して)結婚後は専業主婦が当たり前と思っている人や、婚活で20歳年下の女性にあたってみようと考えた人などがいて、彼らは傍から見るとちょっと難しいんじゃないかと思えるような条件でも、彼らは大真面目に実現できると考えていて、一体なんでそう思えるのかが不思議でならない。
でもみててこれはまずい(不幸だ)と思うタイプの人もいる。どういうタイプかというと、絶対に結婚したいといいつつ相手に高い条件や達成がほぼ不可能な条件を求めている人だ。つまり、問題があるのは、自身の要求がほぼ実現不可能なのにその事実にまったく気がついておらず、しかも絶対結婚したいと思っているパターンだ。もし別の条件を掲げたりできれば彼(女)らは結婚できるかもしれないが、自身が求めているものが高すぎるとわからないがためにそういう"妥協"や変更ができない。必ずしも結婚したいと思っていないならそれでいいのだが、絶対結婚したい人たちなのだから要求レベルが高すぎる/そんな相手は実在しないとわかれば、条件を変えようとも思えるはずだ。
何でそういうことを考えてしまうかはわからないのだけれど、いずれにせよそれがわかっていない状態と言うのは本人とっては不幸なことじゃないかと思うのだ。
業務用スーパーで冷凍野菜買って効率よく自炊がおすすめ
最近はさまざまな美食記事が出てきて、世の中の食生活は豪華だなあと思っている。
一方で世知辛い記事もあるので、安く栄養をとる方法についてひとつだけお勧めしたい。業務用スーパーで冷凍野菜を買うことである。
上記の記事はお金がないせいで、栄養的に満足できる食事ができないという趣旨の記事だ。
正直に言うと、子供の頃は毎日カップラーメンや袋ラーメンを食べて野菜をろくに取らずに体を壊す人のことを変だと思っていた。
いつだったか、「米国の低所得者層は新鮮な野菜が高すぎて買えず、ファストフードなどに頼りすぎていて肥満が多い」という記事を読んで、発展途上国と先進国の貧困層は置かれている環境がまったく違っていて、貧乏な人はカロリーは足りているがビタミン・ミネラルが不足していることを知った。
お金がある人は外食やデリバリーなどを利用でき、学生は学食に頼ることもできる。自炊スキルがあれば安くておいしいご飯を作ることも可能だ。でもお金も自炊スキルもない人は、カップラーメンやファストフードなど長期的には必ずしも良いとはいえない食事に頼らざるを得ない。
でもそんなの間違っている。お金があまりなくても時間がなくても、健康的な生活ができるべきだ。
なので、食生活にお困りの方にこちらの記事をお勧めしたい。安くて 栄養のある食べ物がたくさん載っている。
私は業務用スーパーで冷凍カット野菜を買うことをお勧めする。楽して野菜を取るのに最適だから。
ネット店舗を持つところもあるので、近所にない場合はネットでまとめて注文してもいいと思う。
冷凍野菜を勧める理由
お勧めする理由は賞味期限が長く保存が利くこと。新鮮な野菜は保存が利かないことも多い。暇があれば買ったものを保存食にしたり小分けにして冷凍保存もできるが、忙しい人間だと時間がなくていちいちスーパーに新鮮な野菜を買いに行ったり、調理・加工することが難しい。冷凍野菜であれば買い置きが可能で、疲れているのに冷蔵庫に何もないからスーパーに寄ってーとか、めんどくさいからコンビニで何か買うということが減る。
少しずついろいろな野菜を食べることもできる。一日30品目と言うけれど、いろいろなものをちょっとずつ食べていれば栄養が偏ることは少ない。 たとえば、一人暮らしで大根を買うとなると、最低でも半分を買うことになる。半分だとあまり持たないので、数日間は大根祭りになる。ある意味で栄養が偏るし、大根好きでなければうんざりしてしまう。
また、最初からカットされていたりするので、洗ったり切ったりといった下ごしらえの手間が省ける。袋から野菜を出して2分レンジ調理してドレッシングかけて終わり、5分以内で一品作ることも可能である。 新鮮な野菜だと、帰りにスーパーに寄って買ってきて、洗って切ってゆでたり焼いたり、それだけで数倍の時間がかかる。
場合によっては新鮮なものを買うよりも安い。ものにもよるが、1キロ400円前後なので、一日300g野菜を取ると考えると、一日あたり120円で1ヶ月3600円ぐらい。
下が大体200円ぐらいの食品になる。
安いやつはどうしても中国産が多いが、野菜をほとんど食べないよりはまし。日本産は少し高いラインになってしまう。
食材の例と簡単な食べ方
- ブロッコリー→電子レンジでチンしてマヨネーズなどをかける。
- ほうれん草、小松菜→スープに投入。おひたし、炒め物。
- 青梗菜→スープに投入、炒め物。
- 菜の花→スープに投入、おひたし
- おくら→スープに投入。チンしてめんつゆをかけてもおいしい。
- いんげん→チンしてめんつゆやマヨネーズ。スープに入れてもおいしい。
- 大根、きのこ→スープに投入
- かぼちゃ→チンしてそのまま食べてもおいしい。ひとつコップに入れて電子レンジで解凍後牛乳200cc・コンソメ顆粒スープのもと・塩コショウを入れて再度チンしてかぼちゃをつぶすとかぼちゃのポタージュになる。
-
たまねぎ→カレー・スープ、炒め物などなんにでも入れられる
- ねぎ→スープでも炒め物でも彩りに。
大体の物がスープに入れるとおいしい。スープは市販の出汁のもと、中華スープのもと、ブイヨンなどを使えばいい。 葉物などは冷凍したものを解凍するとしなっとするので、スープが一番いいと思う。炒め物はちょっとべチャッとしてしまうので割り切って使っている。
大体電子レンジで加熱すると、蒸したりゆでたりしたのと同じような状態になるので、出てきた水分を捨ててドレッシング、めんつゆ、ポン酢、マヨネーズをかけてそのまま食べたり、少し手を加えて食べるといい。
袋ラーメンを食べるときでも、もやしをレンジ加熱したものや、小松菜・ほうれん草・菜の花・いんげんあたりをいれると、野菜がとれる。
- 炒め物には向かない。ものによってはどうしても風味が変わったりする部分はある。
- どうしても中国産が多い
- 冷凍することで失われる栄養もあるらしい
とはいえ
人間やっぱり体は資本。がんばらずに栄養取りましょう
でもミニマリストは嫌いではない。むしろ好き
前回の続きのような記事です。
ミニマリストはの考えはむしろ好きだったりする。
今はレンタルサービスも発達しているし何でもかんでも所有する必要は必ずしもなくなっているように感じている。再購入も容易な時代なので不必要なものは減らす、と言う考え方は理にかなっていると思う。レンタルスペースサービスを考えると、何でもかんでも所有することには"保管料"のような見えない費用を払っていることが良くわかる。また、所有していることで手入れをしなければいけないものも多く、所有している必要はないと感じることが多い。
たとえば、結婚式に着るような一年に数度着るか着ないかと言ったドレスはレンタルのほうが便利だ。招待客が同じ式で毎回同じドレスを着ているのもなんだし、年に数度着るだけのものに何万円も払うのは少しもったいない。また、自動車も、車必須の地域に住んでいるのでなければ、利用目的・回数によってはレンタルサービスのほうがいいだろう。都会だと駐車場を確保する必要があるが、その費用も馬鹿にならないことがある。
世のブログを書いているミニマリストほどではなくても、私もそこそこ物を捨てたりレンタルサービスを利用している。
一昔前の片付けの流行は、"物が増えすぎてすっきり収まらない→物を収納する場所を確保"、と言う形だった。それが、そもそも物が多すぎる!いらないものを捨てよということで、断捨離が流行った。日本の住宅事情を考えると自然な流れだと感じる。
その中でも、自分が管理できる物の数は限られているからいらないものを捨てて管理できないものを減らそう、そして所有物をできる限り減らそうと言う動きがミニマリズムなのかな、と思っている。
確かに物が減ると、自分が所有しているものの位置がすぐわかり、部屋も散らからず、良いことがとても多い。所有物の手入れもそれほどいやにならず、とても暮らしやすくなった。ちょっと物を減らしただけでもそれなりの効果がある断捨離は、割と人にすすめたくなるのも良くわかる。
ただ、何をどこまで所有するか、自分のものをどう扱うかは、その人の物の考え方が如実に出てくる部分なので、困っていない人に対してアドバイスしても効果はでない。結婚したいと思っていない人に結婚したほうがいいといっても、あまり効果がないようなものだ。お金に困っていない人に投資を勧めるようなものでもある。
そういうわけで、私は他人にはミニマリストを勧めていない。良かったことは言うけれど、強く勧める気にはならない。
将来共有スペースが相手のものであふれたとき、私はどうするのだろうか。たぶん、レンタルスペースを借りて代金を相手の貯金から捻出するよう要請するのだろう。相手の考えをかえるのは大変なので、折衷案を提案するしかないと思う。
勝手に他人の持ち物を捨てる話が苦手です
私は勝手に他人の持ち物を捨てる話が苦手だ。
最近はミニマリストと断捨離のネタがたくさんでていて、旬の話題と化している。親が子供の持ち物を勝手に触ったり捨てだりしてしまうと言うのは割とよくある話だと思うが、大人が大人のものを勝手に捨てると言うのはわりと新しいなあと思う*1。
私は子供の頃何度か、とっておいた大好きなお菓子を誰かに食べられてしまうという悲しい目にあった。幼稚園や小学校の頃のことだったが、母に言っても母は他の子供を叱ったりはせず、「ずっと食べないからいらないんだと思った」「新しいのを買ってあげるからなくのをやめなさい」と言った。後でわかったことだけど、他の子供が母に目に付くところに会ったお菓子を食べていいか聞き、母が勝手に許可を与えていたのだった(母が食べたケースもあった)。他の子供はそれを私のお菓子だと知らなかったのと、母は子供に対しては謝れない人だったので、このことで謝ってもらったことはない。
私は私で当時は何が起こったかかわからず、人の持ち物に勝手なことをしても怒られない理由もまったくわからず、そのわからない気持ちも理解してもらえず、なぜかお菓子をとられた上にしかられると言う意味不明なことになってとても悲しかった。
そういう時、母は本当に同じお菓子を元の数倍買ってくれた。でもそのことで誰かに謝ってもらったことはなかったし、同じことがおこったときに以前のことを蒸し返すと"しつこい"と怒られた。お菓子は戻ってきたので、お菓子そのもののことは良かったのだけど、当時の私にすればどうしてだかとてもつらかった。今はその理由が理解できる。私はとても軽んじられていたのだと。
大人からすればただのちょっとしたお菓子でしかないので、新しいのを買ったのだからもういいでしょう、と言う気持ちもあるだろう。そういう、子供と大人の重大性というのもズレとしてはあるのだけど、どうしてああも傷ついていたのかというと、私はいやだ・悲しいと伝えてもお前が我慢しろとしか言われず、私が我慢することが当たり前で、我慢しなかったらお前が悪いのだ、と言うメッセージを親から受け続けていたからだった。今では親自身がそういうメッセージを発していたことに無自覚で悪気ゼロだったと言うことがわかっていることや、世の中にはそういうことがたくさんあると言うことがわかり、同じことが起こっても蒸し返したりはしなくなった。
とはいえ、いまでも許可なく他人の持ち物を捨てる話がどうも駄目である。
たとえ本人が今使っていないものでも、人の持ち物と言うものは広義の意味でその人の一部・領域のようなものだ。その一部を勝手に捨ててしまうのは、その人のことを"捨てて"しまうことに近い。
他人からすると、物は物でその人の一部ではないので、捨てることに抵抗はないと思う。ところが当人からすると、自身の領域が侵されているような奇妙な感覚に襲われることがある。
自分にとってなんでもないもの・ことが、相手にとっても同じだとは限らないのだ。
*1:多くはおそらく最近話題のネタになってしまったがゆえの釣りだと思うが、何件かは実際に起こったことなのだろうとも思う