自分を基準にして考えることの危うさ
いわゆる凶悪犯罪に関してまとめてあるサイトのコメント欄に、しばしば「被害者にも落ち度があったのではないか」というコメントがある。
確かに、世の中には殺されるほど憎まれている人はいるだろう。
しかし、ちょっと調べれば被害者には何の落ち度もなかったことが明白な事件だったとしても、そのようなコメントは多く見られる。コンクリ殺人ですらそうだ。
私はこれまで、犯人の知り合いか被害者の何らかの属性(性別、年齢、収入、職種、etc)が気に入らないがゆえにそんなことを書いているのかと思っていた。
そんなことを書いている人間は、きっと自分で調べようともしない救いようもないほど無知な人間か頭のおかしな人なのだろうと思っていた。
最近、子供が好きな人ばかりではないという趣旨の記事を見て、ああ世の中子供が嫌いな人はいない、という風潮があるが、確かに好きじゃない人はいるよね、と思った。常識とされていることが実は常識でもなんでもない、というのはよくあることだ。
そこでふと気がついたけれども、「被害者にも落ち度がある」を書いた人たちはもしかして、どこにでもいる普通の人間で、ただ、自分と同じ人間が被害者にうらみも何もなくても、痛めつけて殺すようなひどいまねができるのだと信じられなかっただけなのかもしれない。自分や自分の周りには、そんなひどいことをした人なんてまったくいなくて、そんな自分たちと同じ人間が理由もなくそんなひどいことをするなんて信じられなかっただけかもしれない。
事件が起こるまであったことがなかったような相手でも殺すことができる人間はいるけど、あまりそんなことを考えたり実感したことがなかったのかもしれない。
いずれにせよ、ただ偶然その場に居合わせただけで被害者となってしまった人を、"非があってのではないか"と言って貶める行為に情状酌量の余地なんてないけれど、それを書いている人間は実はただの普通の人なのかもしれない、と思った*1。
*1:何の根拠もなく被害者の落ち度を指摘したり調べもしない馬鹿さ加減は抜きにして。