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「ずるい」という言葉を使いたくないし聞きたくない

「ずるい」という言葉を見たり聞いたりすると大変もやもやする。

先日外国人から、「日本人はビザがなくてもどこでもいけるから、なんというか、ずるい」といわれた。彼が言いたかったことは"うらやましい"といったほうが正しいと思うが、いずれにせよあまり気分がいいものではなかった。本当は彼は自国の政府の方針で複雑な手続きをしてビザを得なければいけないので、日本人ではなく政府が問題だとおもう。

 

私が「ずるい」という言葉に特別嫌なイメージを持つのは、過去にずるいといわれたことがあったからだ。学生だったころは受験勉強には強かったもののもっぱら家で勉強していたので飄々と点をとっているように見られてしまい、「なんであいつが」という趣旨のことを言われたことが何度かあった。

 

人が「ずるい」と思うとき、相手が卑怯な手を使っていたりえこひいきされていることがほとんどだろう。ところが、何も"ずるい"ことがなくても、ただ自分以外の誰かが良い結果を得ているというだけで「ずるい」と思う人が世の中にはいる。思うだけならいいのだが相手に直接ぶつける人間もいる。ぶつけられるほうはいい迷惑だ。

 

「ずるい」と思ってしまう人には、何タイプかあるようだ。

一つ目は、最初から覆すのが難しい差がある場合だ。それは貧富の差かもしれないし、家庭環境かもしれないし、才能かもしれない。本当にうらむべきはそれをもたらしているもの、つまり国だったり周囲の人間だったりするが、それを直視できずほかの何かをスケープゴートとしてずるいといってしまうこともある。そのような場合は手でも頭でもとにかく動かすしかない。自分ではどうにかできない差なのだから、ボーっとしているうちに差が広がらないように努力するしかない。頭や体を動かすことでそんな気持ちも忘れられるだろう。

 

二つ目は"幼い"人だ。他人がたまたま幸運にも何かいいものを手に入れたときや、人に見えないところで努力して手に入れたものでも「ずるい」という。

そういう人たちは、まだまだ若いか、余裕がないか、相手の見えない努力がわからない程度に幼いかのどれかだ。若いだけならいいのだけれど、他人の努力が想像できない人は少しまずいと思う。そのような人は、努力の結果何かが改善しうるということがわかっておらず、自分の苦境を改善するための自発的な努力ができないからだ。努力しなければ自信の能力は上がらず、「ずるい」と思う気持ちは膨らむばかりだ。

 

いわれなき「ずるい」をぶつけられて思ったことだけど、ずるいという暇があれば手でも頭でも何でも動かしたほうがいい。何もしない人間は何も得られないし、他人を見ているだけでは何も解決しない。

結局のところ、不満は一時しのぎであって、根本的解決にはならないのだ。