メソッドに囚われる
どのようなメソッドでも例外があるように、恋愛工学は一部の人に対しては効果的であり、一部の人に対しては効果的ではない。仕事でも恋でも趣味でも、ある場面で有効な方法論が別の場面で失敗することは良くあることだ。
今回はこれを読んだ。
この忘年会の結果がお互いにとって散々であることは明らかだが、自身に失敗の原因があるとはまったく思っていないらしいことが伺えた。
高田:
シマヅさんって、これまで本気で口説かれたことないでしょ?シマヅ:
(無言)
突然浴びせられた、カチンとくるセリフ。
ユッケを食べて「美味い美味い」と言っていたのに、イライラして肉の味がよく分からない。筆者がそんな心理状態であることを知ってか知らずか、本当の恋愛はどういうものか、それを得るようなことをしてきたのか、という、なかば説教のような話をくりだす高田さん。筆者、我慢の限界がきて、ブチ切れ。
大人げなく、「はぁ!? お前に何が分かるんだよ!!」といった感じで高田さんに罵声を浴びせ続けたところ――
高田:
本気でしゃべってくれてありがとう。こうして、気分を悪くさせるというリスクを僕は取ったわけだけど、そのぶん印象に深く残るでしょ? 僕は君を落とせる自信があるよ。その証拠に、さっきまで見てくれなかった僕の目を、いまでは見てくれるようになっている。
どうやら、筆者をブチ切れさせたのもあえて狙ってやったようです。
編集者さん:
はた目には、口説いてるようには見えませんでしたけど。
シマヅ:
たいした自信ですね。
高田:
ははは。もうそろそろ、僕のことが気になってきてるでしょ?
シマヅ:
いや、全然。
高田:
まぁ、メソッドが刺さらない子もいますからね。でも、刺さる子もいるわけで、そういう子の方が自分と相性がいい相手であることは間違いないわけです。
シマヅ:
なるほど。
もちろんメソッドには限界があるので、メソッドが刺さらない人と言うのは存在するだろう。ただし刺さらない人は相性が悪いと考えてしまうと、自分が不適切なメソッドあるいは戦術を選んだために失敗した可能性、つまり自分のミスの可能性を見逃すこととなる。
この場面だと、ライターのシマヅさんをdisる戦術をとったことは大失敗だった。直前に「これはいやだ」と宣言したことをわざわざされたら嫌われてしまうだろうことは想像に難くなく、実際にシマヅさんにはdisりは効かなかった。3回会うどころか2回目すらなくなってしまいかねない展開である。
恋愛工学に絶対に相手をdisらないといけないルールがあるのであれば恋愛工学そのものがシマヅさんには不適切だが、そんなルールをがないのであればほかの戦術を使うかなにかすべきではなかっただろうか、と思う。
すっぱいぶどう理論
どうしてこんな失敗が起こってしまうかといえば、そもそも恋愛工学が"失敗しても、誰も責任を負わないシステム"だからだ。
この記事での失敗理由は、メソッドに囚われていて相手のメッセージや反応が見えていない、恋愛工学というメソッドがどのような人に効果的かあるいは効果がないか把握していない、恋愛工学の戦術のうちどれがどのような人に効果的か理解していないなど、いくつか考えられる。
しかし、恋愛工学では、失敗しても、アレはそもそも自分の目指すべきものではないと言う"すっぱいぶどう理論"が用いられるため、そもそも失敗が失敗と認識されず、うまく行かないのは自分の失敗であると思うこともない。そのため、入り込んだら最後、その世界観に囚われてしまう。
メソッドに囚われるとは何か?
あるメソッドにどっぷりつかっていると、その世界観でしか物事が見れなくなってしまう。たとえばこの人であれば、
disられた女性=自分のことが気になる=落とせる女
という恋愛工学上の等式が頭の中で成り立ってしまっている。相手によってこれは成り立つこともあるが、成り立たない可能性が頭にないように思われる。
- disられた=不快だから、二度と連絡を取らない
- disられた=嫌われている、嫌がらせされている
ただ、メソッドに限らず狭い世界での常識や慣習に縛られてしまうのは良くあることだと思う。
昔の日本であれば、人の移動範囲が狭い時代では自身の住む土地の常識がすべてだっただろう。ネットはネットで、ネットを鵜呑みにする人もたくさんいる。われわれの本質はあまり変わっていないのかもしれない