レストランを自分の雰囲気作りに使うという用法

 上京してきたとある女性の17年のストーリーを通じてレストランを紹介するこのシリーズ、ずいぶんと話題だったので私も読んでいた。

 

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40代を超えたら、大半が既婚ですからね、マイノリティの未婚の女性は、特異な存在なんですよね。遠慮がちに好奇の視線を送ってくるのが分かります。ひどいときは、ヒソヒソ話していますから。

結婚していなかったら、この視線に押しつぶされて引きこもっているでしょうね(笑)だけど、一度結婚したという免罪符は、離婚直後の苦しみを耐えただけの価値があります。結婚していた、という事実は、彼女たちの想像の一歩先、斜め上をいっているわけで、そう思うと愉快ですよ。40代からのおひとりさまは、この視線を逆手にとれるだけの自信や実績があれば楽しめるはず。

最近なんて、チラチラ見てくる若い人たちの前で、一人ラーメン豪快に麺をすすってやりますよ。どこまで自分の精神がタフでいられるか、ちょっと試してる感じです(笑) 

ラーメン屋さんに40代女性が一人でいたとしても、惨めそうに見えたことはない。「せいぜい珍しいな、ラーメン好きなんだな 」と思う程度だ。綾は40になっても人目を気にして行動しているのが良くわかる描写だ。あるいは、綾は他人のことをいつもそういう風に思っていたのだろう。
 
彼女は一杯1000円のラーメンを食べなくても、デパ地下の惣菜やデリバリーを家で食べたりレストランに行ったり、ほかの選択肢がたくさんある。彼女がそれらの選択肢をとらないのはなぜかといえば、ラーメンが好きだからではなくて言い訳のためだ。つまり、世間の評価軸としては(つまり彼女にとっては)彼女は寂しい40女だが、彼女は自分のことを惨めな人間だと思いたくないから、自発的に"惨めな"お一人様ラーメンをして、自分は大丈夫というポーズをとっている。ある意味で、自分が気にしている"欠点"を自ら言って笑いをとる人のようなものである。自分からやれば怖くないのだ。
 
個人的にこの連載で最も興味深いのは、最後の最後で食べ物がこんな形で使われていることだ。
この連載は本来レストランを紹介するための連載であるにもかかわらず、最終的にレストランで食べるものであるラーメンが、綾にとって好奇の視線やヒソヒソ話と戦う武器として使われている。
これまで、つまり40歳になるまでの連載においても、実のところおいしい食べ物やレストランは綾にとっておしゃれの一部でしかない。それがおいしいから食べるという側面ももちろんあるが、ファッションとしていいレストランに行くという側面がもっとも強い。自分の欲望よりも虚栄心、つまり他人からどう見られているかが大事なのだ。
彼女は結局「食べ物をただおいしく食べる」という境地に至らずに*1、連載が終わるのである。
 
 問題はこれがレストラン紹介で行われているということだ。もちろんただ偶然ラーメンが使われただけで、ほかの表現でも良かったのかもしれない。綾だとむしろ、高級レストランで『私は大人の女』と振舞って同年代のお金がない女性あるいは未婚女性を見下しているほうがありえそうなのだが、なぜかわざわざラーメンである。
 
綾のようなタイプの人にとっては、レストランはおいしいものを味わうところではなく、どこまで言っても自分を飾るものでしかないことを、この連載は痛烈に皮肉っているようにも見える。おしゃれな私、人から憧れを持って見られる私、大人の女な私、他人から惨めに見られてもへともしない私。
彼女の中に"私"はおらず、いつもほかの人に"私"がいる。なんて奇妙なことだろうか

*1:一応足長おじさんのおごりより自分が支払ったほうが味が鮮明だといってはいるが・・・・