カムアウトの意味

ご紹介と感想。

ゲイのアメリカ在住日本人記者にインタビューした記事。

www.newsweekjapan.jp

冒頭の気になったところを抜粋。

 今の日本は、LGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーなどの性的少数者)にとってカミングアウトしやすい社会と言えるのか。

(中略)

私は、隠れていたら人間として生きていることにならないと思っている。もちろんみんな秘密は持っているけど、自分のアイデンティティー、つまり自分を受け入れないことには、それは人間じゃないよということがアメリカでは構築されてきた。

(中略)

しかし、日本ではなかなかカムアウトしない。

(中略)

友達が10人や20人いたら、必ずその中に1人はいるはずだ。言わないということは、本当の友達とは言えないのでは。

 それは、その人がゲイやレズビアンの人にとってカムアウトすべき対象ではないということ。カムアウトするに足る、カムアウトする価値のある友達ではないということだろう。もしくは、カムアウトするのが怖いくらい大切な友達という場合もある。

 (中略)

カミングアウトとは何なのか。それは、まずは自分で自分のことを認めるということだ。自分が自分に対してカムアウトすること。それが最初のステップで、そうすると次に必ず誰かに言いたくなるし、誰かに言ってもいいやと思うし、誰かに言った上で付き合いたいなという風に必ず動き出す。自動的にそうなっていく。まずは自分が自分に誇りを持ってアウトすること、これがカムアウト。

 

今の日本がカムアウトしやすいかと言えば、まったくそんなことはないだろう。人は皆異性が好きであることが前提とされた会話にあふれているし、LGBTの人々を馬鹿にしたり差別する言説にもあふれている。

私は友達や知り合いがLGBTでもなんでもあまり気にならない。人に迷惑をかけない限り、何を考えても自由だと思っているからだ。

今のところ、私にはLGBTの友達や友人はいない。あの人はそうかもしれない、と思う人に心当たりはないではないが、カミングアウトされたことはない。

 

私は最初、この記事の最初のページを読んだときに言っている意味が良くわからなかった。ゲイやレズビアンの人にとってカムアウトがそんなに大きなことなのかわからなかったのだ。

 

しばらく考えて、こういうことかなと思った。

ごくまれに、恋人や友人から、"告白"を受けることがある。愛の告白ではなくて、過去にこういったことがあったという報告のようなものだ。それはなにかしらつらい思い出で、第三者から見るととても小さなことやとうに過ぎたことだったりすることもあるのだけど、本人にとっては死ぬほど大事なことだ。それはきっとこころのとてもやわらかいところなのだろう。

 

聞かれていないのに話すことというのは、本人にとって空気のように普通だからか、あるいは大事なことだから話すのだと思う。

 

ゲイやレズビアンの人々にとって、カムアウトとはそういう"告白"なのではないだろうか。