人をモノとしてみるということ

「人をヒトとしてみる」のはわかる。相手に向き合うことだ。

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では、「人をモノとしてみる」とは、どういうことだろう。そしてそれがマイナスに働くとは、どういうことだろう。上の記事とは違うかもしれないが、私が思うモノとしてみることを、今回は書きたい。

 

元友人に、不倫常習者になった人がいる。あるとき元友人は私に不倫を告白してきた。「もうやめる」といいながら。半年後、女子会で不倫(何とか人目)を告白し、「みんなやってるよー」とのたもうた。

 

その場にいた人たちは、はっきりと非難する人、渋い顔はするがはっきりとは非難しない人*1、何も言わない人、どんどん聞く人にわかれた。

 

非難していた人は、彼女とは疎遠になっていった。何も言わない人は、特に変わらなかった。どんどん聞く人は、彼女を非難も否定もしないので情報を手に入れて、時々彼女の不倫情報を流していた。彼女の不倫は何人かと続き、終わる気配がなかった。むしろ悪化していたようだった。

 

そうするうちに、彼女の周りの人は、不倫に抵抗感がないか、彼女の不倫を面白がっている人たちになっていた。彼女らは、不倫だからといって否定はせず普通の恋愛話のように話をする。不倫に抵抗感がないからだ。この人たちは彼女をモノ扱いしたりはしていない。普通のことだから、普通に話している。

 

一方で、面白がっている人は、不倫をあおる。面白がっている人は、「不倫を美化するようなこと」つまり、彼女の行為を正当化するようなことをいい、彼女をいい気分にさせ、不倫を助長していった((彼女の選択そのものは彼女の責任です。不倫に関しての責任は彼女にあります。念のため)。)彼女が不毛な関係に陥ろうと、慰謝料請求される羽目になろうと、彼らは損をしないからだ。自分が楽しければそれでいい、面白くなるなら心にもないことを言っても良い。ただそれだけだ。

 

これが私の思う、人をモノ扱いする、ということだ。自分が楽しければ、自分が言ったことが原因・遠因となって、ほかの人がひどい目にあってもそれでいい。

その人のこの先のことなんかこれっぽっちも考えず、思ってもいないことをいったりやったりすること。不誠実といいかえてもいいかもしれない。自分の親兄弟だったら言わないことを言ったり、自分が相手の立場だったら絶対にとらない選択肢をとること、それが相手を人間と思わず対応するということだと思う。

*1:私はこれだった。言いたいことは過去に言ったから。